ともをの日記

頑張ります‼

”名前”の持つ効果について。

どうも皆様。明日東京に行くことに対してドキドキワクワクでございます。ともをです。東京人多いだろうな~。秋葉原アニメイトとか行く予定です。行ってみたいところは沢山ありますが日帰りなので欲張ることはできません。あ~!!取捨選択ができな~い!!!!

さて、そんなことは置いておいて本日は少し暗い話にはなってしまいますが題名の通り「”名前”の持つ効果」についてていこうと思います。(書きたい事の内容により”死”に関することがらが多く含まれています。また、エピソードも多少含まれています。苦手な方、見たくない方は閲覧をお控えください)

まず初めに私は周りの人や生き物の死がめっちゃ怖いんですよね。皆そうだとは思いますが詳しく言うと”死”という概念が怖いのではなく”死”を中心に生まれる悲しみの感情がその場に溢れているという状況そのものの方が嫌なんです。

私自身が死にたいとかそういうわけではなく「私の死よりも身内や友達など親しい間柄の人、生き物がいつか死んでしまうという事実」が怖いんです。

そして、私は一つ死んでほしくない人、生き物の共通点を思いついたんです。とはいえ今生きている人や生き物には基本的に生きていてほしいですが。その共通点というのが今回の本題である「”名前”があり、私はそれを知っている、その存在を認識している」という事だったんです。

名前と言っても「猫」や「人間」といった普通名詞ではなくハンドルネームや本名などの固有名詞のことを指しています。例えば、我が家には謎の風習(?)がありお父さんのポーチ(鞄)にポチぞうという名前がついていますがそれでも壊れてしまったりしたら少しは悲しくなるものです。そんな風に思うのはそのものに対して情を持っているからだと思っているからだと思います。

別に「私は誰かに情を抱くことなどない」みたいな漫画の行き過ぎたクールキャラみたいなそういう事ではなくて「一方的にでもその人、生き物のことを少しでも知っていている」ときに情を持ち、その知った印象が私にとって悪いものだったとしてもなるべくは生きていてほしいと思います。

私はきっとめちゃめちゃなお人好しで、だからなるべく多くの人には長い間幸せでいてほしいと願っているのです。その願いが途端に叶わなくなる”人や生き物の死”という概念が怖いんです。自分が死んでしまうことに対しては、死にそうになったことがないのでもし死にそうになったら「死にたくない!!!!」と意見が変わることはあるとは思いますが今は正直、あまり怖くはありあせん。なんか凄いイキってるみたいになってしまいしたね。やだやだ。もうやめましょうこの話題。

名前を付ける(知る)ことにより深く情が湧く→情が湧くから死んだとき悲しくなってしまう。という流れができてしまうから、名前を付ける対象をこれ以上増やしたくないんです。つまりペットを飼いたくないのです。これ以上。

今私の家では猫や亀や蛙(亀、蛙は複数匹)等の生き物を飼っています。私の妹は過去にウーパールーパーを飼っていたこともありました。その飼っていたウーパールーパーが亡くなってしまったとき、妹は気持ちを切り替えたかったのかすぐに「また新しい子飼おう!!」と言っていました。妹が”命を扱うことに対してまだあまりよくわかっていない”ということは理解していましたが私は正直、その頃の妹の”命に対する態度”が嫌いでした。

”その頃の”と書いたのは、今日、飼っていた蛙のうち一匹が亡くなってしまったんですね。亡くなってしまった原因の一部に妹が関わっているということも関係しているとは思いますが妹はウーパールーパーの件の時とは違いしっかりと”死”に対し悲しんでいたんですよね。以前は悲しんでいなかったとかそういうわけではなく「新しい子」とか言わなかったんです。

”その子の命の代わりなど無い”ということをこの数年の間に学んだようで、完全に親目線の感想にはなりますが「成長したな」と感じました。

私は今回書いたような理由から、もうこれ以上命を扱ったり、名前を付けたりということはないと思いますが、”死”という出来事一回一回にしっかりと向き合い、受け止めて生きていくしかないのかなと思いました。それができないから、どうしたものかと思っているわけですが。

明日は日帰り旅行だというのに暗い話題を書いてしまいましたね。ただこれを書けるのは今日しかないと思い書きました。ただそれとこれとは完全に別物なので切り替えて明日を全力で楽しんで来ようと思います。

多分”東京日帰りレポ”とか書くと思うのでお楽しみに!!そんじゃ、また。