どうも皆様。春休みに入ってからというもの運動を全くしない日々が続いております。凄い良くない。ともをです。
長期休みは大不健康人間を作ろうと企んでいる誰かと春も長期休みほしいよね~っていう人が作ったものだと思いますがきっとそれは100%の善意だと思うので有難く不健康になっていこうと思います。
さて、そんなことはさて置いてですね、最近いつものようにネット記事を見ていたところ、”老害になりたくな~い!!と思っている人で座談会をする。”的な記事がありまして、読んでいて面白いな~と思ったと同時になるほどな、と。
若者が”最近の若者は”で括られたくないように、大人の方々も”最近の老人は”で括られたくないのだな。
という当たり前のことに気づいたんですよね。←言い回しがひろ〇きっぽくなってしまった。
でもよくよく考えたらそりゃそうですよね。私は若者の中の一人ですがいわゆる世間でいう”バカッター”みたいなのには到底なりたくないと思っています。
それと同じように大人の中にも老害みたいなのには到底なりたくないな、と思ってる人もいるはずなんですよね。それも両者とも若者、大人という括りの中の大勢の人が思ってるはずなんです。
でも残念なことにネットの普及も相まって現代社会で目立つのは若者、大人の中でバカッターや老害だけなんですよね…。悲しい…。
私は、道徳の授業で”相手の気持ちを考えて行動するように”というのは耳にたこができるほど言われてきて、そんなことは誰でも知ってるはずなのにできていない人が多すぎる気がしているんですよね。
かくいう私も常日頃からできているのか?と聞かれたらできていない気がします。
知識として知っていてもそれが行動に移せるかは別で、本当に行動に移せたときこそが真の意味で”道徳を学んだ”と言えるのではないでしょうか?
ガキが生意気なこと書いてすみませんね。でも私は真の意味で”道徳を学ぶ”というのはこういうことなんじゃないかと思っています。
今までの義務教育7年間の間に感じた道徳を学ぶことについてのモヤモヤは、きっとこういうことだったんじゃないかな。と言語化して初めて気づきました。
私の無い語彙を一生懸命使った結果、こんな文章が生まれましたが、伝えたいことは伝わったでしょうか?哲学的な話になってくると、どうも文がめちゃくちゃになってしまいますね。でもこれで私のモヤモヤは晴れたのでオールオッケーです。凄い自己満足のブログだな。まあブログってそういうものか。
まあ結論、大人も若者もお互いを大きな主語で括らずに、平和に生きていきたいものですね。
よっしゃ、うまくまとまったぞ。終わります、そんじゃ。